スイカが好きなフリをする

博士後期課程D3/看護学/障害学/社会学/研究や旅行、日常で思ったことなどを楽しそうに書いています

自己開示について

自己開示は難しい。





人から見てわかること(補聴器をつけている、片足が欠損している、酸素ボンベを携行して経鼻で酸素を吸入しながら歩いているなど)なら自ら言わなくても大体想像がつくだろう。

見えないことなら自己開示の選択肢は自分にある。





言わなかったら相手は知らないままだ。
別にいう必要のない場合も多いだろう。




例えば、離婚歴がある、前科がある、堕胎したことがある、ペースメーカーを入れている、発達障害がある、など。












障害がある、と自己開示をすることで

制限がある人なんだな、と見る人がいる。
制限のない自分と比べて優劣をつけてないだろうか。













友人が話してくれたとき、
私は、おもろいものもってんなあ、と返事をした。





自己開示をすると返事は芳しくないことがあるようだ。
なんかきいてしまってごめんね、とか
たいへんなんだね、とか
そんなの全然気にならないよ、のような返事がある。






思いきって友人に言ってみたものの同情するかのような、友人から他人のスタンスをとるかのような返事があればツラいと思う。




なりたくてなったわけではないし、なりたくてなれるものでもないので私はそのように思っていたり返事をすることが多い。
その人の感覚がおもしろいなと思う。
いい生き方と思う。








  
人の気持ちをわかろうとすることはできても、完璧にわかることは難しい。
わかろうとする姿勢が看護職で求められると感じた。おもてなしの国。忖度。
日常でもたまにそう思う。



障害と生きる期間が長ければ、
その人にとってはマジョリティとは異なる生活が当たり前なわけでなにも特別ではない。



自分や知っている人と違っていることを見つけると、必要以上に観察したり、意見まで述べてしまっている場面をみる。



人と違うことに対して、周囲の反応が強いことが当たり前になったり諦めることがある。
私は避けられないことを諦めている。





西成、釜ヶ崎は奇行や珍しいことに対して気にとめなければ、路上で寝ていてもいい。
どんな人がいてもいいのだ。
大阪に限らず似たような場所はあっても、減っているように感じた。
大阪を非難するつもりはない、大阪は楽しい。









私が最近ビックリしたことは、
コンビニ店内でタバコを吸うおじいちゃんと注意せずに雑談や接客をする店員を見たことだ。




何年ぶりに見ただろう。
私は今26歳だが昔見たかどうかもわからない。
ただ、世間で禁煙の波が続いていることは非喫煙者の私でもわかっていた。