スイカが好きなフリをする

博士後期課程D3/看護学/障害学/社会学/研究や旅行、日常で思ったことなどを楽しそうに書いています

子育てと交流について

6\29
外部の医者(以下A)が大学院生に話をするため来てくれていた。
内容は国際協力について。
それも小学生高学年に実施したものを同じようにしてくれたので、わかりやすく面白かった。
先生もほどよく力を抜いて話しているように見える。
気になったことがあればいつ喋ってもいいような笑いの多いクラスだった。




「どうしてサハラ砂漠に行ったんですか」
「子どもさんも医者になったんですか」

二つ目の質問がかなりヒットしたように感じた。
授業とは全く関係のない質問だった。
私はいままで生きてきて、医者の子どもは医者になることが多いと勝手に思い込んでいた。
Aは父親としてそのことを「本当に申し訳ないことをした」と悔いているように話した。




そして、20歳代後半になって医療とは全く関係のない仕事に就いたと聞いたのでほっとしたんだ、と話した。
「親の人生ではなくて、自分の人生をしてくれている」という。
強いるではないけれど、そのような環境をつくってしまっていたように聞こえた。
子どもは親の言うこと、作る環境に疑問を持つことは難しいと思う。
子どもがいい年頃になると、自分の親のことやよくわからない期待だってわかるだろう。


子育てに正解はないだろうけど、子どもの適正を見つけてやって自由にしてほしいと思う。
無理に見つけようとしなくても成長のなかで気づけるといいな。
新聞にも、石川遼くんの両親がどうだったから今のあれがあるのだ、とか書いていた。
福原愛ちゃんは卓球ですごいけど、小さい頃から親にむちゃくちゃ言われてぼろ泣きしながらやってるとこをテレビで見たぞ。
言われてやってたのか、好きでやってたのか知らんけど。








(Aの本題に戻る)


Aの話を聞けば、どうして国同士が協力するのかがわかってしまう。
歴史や政治を省いた話だった。
ラオスに行ったAはメコン川の近くで寝ていたらマラリアになったそうだ。
マラリアって予防注射ないのな。知らんかった。
入院して旅を続けたらしい。タフネス。








先日、先輩から論文の相談を頼まれたことがあった。
もちろん真剣にするのだが、自分に適当なことができるかは置いておいて。
まず頼まれるということが嬉しかったのだ。
先輩の文章にもの申すのも考えるところがあるけどこれも置いておこう。




今こそ大学院生で培っているクリティークをキメる時だ。
やっていっている。
こんなこと書く間に、早く終えて返信した方がよいことは私にもわかっている。




読ませてもらうことで、感動のある勉強があった。
たのしみ。うれしみ。
ちゃんと理解ができていない言葉があって読み進めるのに時間がかかる。
理解してから次に進むのでわかっていく感じがある。
自分とは違う分野の研究を知ることで、視野が広くなったと感じれたし、視野が狭くなっていたので気を付けようと思う。
学問的な知識はもちろんであるが、人間的成長がフリーズしていたので今日からやっていこうと思う。




悪意のない善意ほど暴力なものはないと思うが、
私も作ったものを先輩に送ろうと思った。
悪意のない善意は、子育てにおいて相当に言えることがある。
それは、子供が成人しても続く。
私も気を付けよう。



いま私は看護の肩書きを借りて研究をしているけれど、看護学が100%の研究ではなくて内容を数値化して分類すれば福祉2、社会学3、障害学3、教育学1、心理学2、看護3くらいの比率だと思う。
なので全体は14。
いろんな学問をかじれているので楽しい。




学科での中間発表の時、教授陣から「それって看護の研究じゃないじゃん」と論破されないように対策をした。
世界はそんなに意地悪じゃなかった。
あぁ小さな世界。




というのも。
今の大学院へ行くまでに受験したところでは、
「それは看護研究でなくて、福祉の研究でしょう?」と蹴られたものだった。
当時はやかましいと思っていたし、今でもそう思っている。
成長していないのか、芯がブレていないのかわからないけれど。
もう終わったことなのでどうでもいいし、積極的に考えることはない。




大学院は手段であって目的でない。
最近思ったのは、私にとって看護は手段であって目的でなかった。