スイカが好きなフリをする

博士課程D2/看護学/障害学/社会学/研究や旅行、日常で思ったことなどを楽しそうに書いてます

“目の見えない人は世界をどう見ているのか”と当事者ジョークのはなし

(タイトルが長い。)


学舎にあるエレベーターの中で普段関わりの少ない先生と二人になった。

「あなたどこ住んでるの?」
「(大学のある)○○県に下宿してます。」
「そうなの?院生室に住んでるのかと思った。あるのよ。寝泊まりする人。」
「どどどどどどどどうしてそんなことを言うんですか。ちゃんと家に帰ってますよ。私も土日に先生の研究室が電気点いてるのよく見かけます。ご自愛なさってください。まじで。」
「ほんとよ。忙しくて再発するかと思った。」
「ほんまですか。それ冗談にならないですよ、、!」

この話は当事者ジョークだと思うのだ。
言葉の重みを持つがゆえのジョーク。
過去の体験を笑いのネタに話しているのを見ると、とても心地よく感じる。
他に心地よく感じたのは、朝からネクタイを閉めたビジネスパーソンが定食屋でビールジョッキを持って乾杯していたことだ。

私に話しかけてくれた先生にあったように、私が院生室で○○してる風に思われていたのは名誉なことだと思った。




伊藤亜紗:目の見えない人は世界をどう見ているのか

を読んでいてわかりみの強い文章と“舌打ち”について新たな発見があった。

“情報ベースでつきあう限り、見えない人は見える人に対して、どうしたって劣位に立たされてしまいます。そこに生まれるのは、健常者が障害者に教え、助けるというサポートの関係です。福祉的な態度とは、「サポートしなければいけない」という緊張感であり、それがまさに見える人と見えない人の関係を「しばる」のです。”

ということだ。
サポートの関係はよそよそしさを生むと思う。
友人と一緒に居たはずなのに、他人と一緒にいるような感覚をお互いにもたらす。
そんな例も記されてあった。

目が見える見えないに限らず、他の不自由さにおいても共通することだと考えている。
それは私自身が他者へサポートしたときにも感じたし、サポートを受けたときにも感じることがあった。
今後も考え続けていくし、私自身何かをするときにはかなり慎重である。




舌打ちについて。
あれは個人に発生した負の感情を周囲に巻き散らかしているようで非常に気持ちが悪い。
また、変に高音に聞こえるので尚、質が悪い。
あなたの感情を周りに聞こえるように表現しなくてもいいんだよ。
舌打ちをする人は、死ぬまで毎日舌を噛んで痛さを味わえばいいと思っている。
あと、私は舌打ちができない。
やり方がわからないのだ。
だからこんな風に思うのかもしれない。
そんなことはないのだけれど、あの感情を含んで聞こえる不愉快な音が嫌いだ。

そんな舌打ちの有用性についても、同書に記されていた。
“ベン・アンダーウッドという黒人の全盲の少年は、常に舌打ちをしつづけ、その反響音で空間を把握することで知られていました。「反響定位」と呼ばれるこうした認識法は、通常はイルカやコウモリの能力とされていますが、彼はこの方法を駆使してスケボーやバスケを楽しんでいたのです。”

なるほど、みんな悪態をついているように見せかけて空間を把握していたんだね。
こりゃあ一本とられましたな、ははは。





パン屋さんでアルバイトをしていた頃、自宅で生地から発酵させてオーブンで焼いたカボチャあんパン。
この時は自分の事を天才だと思った。
パンを作れたら天才になれたのだ。歳を取ったな。
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